sadayan65が収集した「京の鬼瓦(東山周辺)」を紹介いたします。


京の鬼瓦(東山周辺)

智積院金堂棟鬼
 留学生として遣唐使の一員に選ばれ入唐(804年)した空海(32歳)は密教の伝法阿闍梨位(金剛・胎蔵両界)の灌頂(免許皆伝に当たる)を受け806年に帰国、わが国に真言密教を導入、真言宗を確立した。
 京都東寺・高野山に学問所を開創、布教に力を注ぎ伝燈大法師位(820年)弘法大師(835年)の称号を受けた。大師入定後、260年にして真言宗は疲弊し、再興に覚ばんが尽力し、高野山を離れ、新義真言宗を興し和歌山に根来寺を建立、学問所の本拠とした。しかし1585年豊臣秀吉により全山焼き討ちにされた。
 その後、徳川幕府より京都に寺宝を与えられ、智積院として寺領も大きくなった。今日の智積院に至るまでに5回の火災に遭い、金堂は明治になって再建されたものである。
 この棟鬼は明治中期頃の製作であろう。この表情はやや空ろで苦悩の深さを我々に訴えているように思える。新しくとも激動の最中の作品に変わりはない。


智積院蜜厳殿棟鬼
 この鬼瓦の表情、激しい怒りにも拘らず、その目は光なく空ろである。
 高野山を去った覚鑁は、根来寺に学問所を開き、新儀真言宗を興して高野山を凌ぐ一大拠点となり真言宗復興に寄与してきた。だが、その勢力を恐れた豊臣秀吉により1585年全山を焼き討ちにされた。その後逃れて転々、現在の智積院に至るまでに5回の戦火、火災に遭い、さらには明治維新、政府による廃仏毀釈(仏教廃止運動)の困難を迎えている。
 鬼瓦として仏を守ることの難しさ、空しさを身に滲みて感じたことだろう。この鬼瓦は従って、新しく明治33年頃の作品で、智積院が総本山としての基礎が固まった頃の製作であろう。


三十三間堂本堂棟鬼
 鬼瓦の表情は時代を反映反映したもの。
 この棟鬼の本堂は後白河上皇が平清盛に命じて建立させたものである(1164年)。
 しかし、鎌倉初期大火に遭い鎌倉中期(1266年)に再建されたもので、由緒ある建造物である。
 この時代の前後、承及の乱、諸国大飢饉度々の大火、大地震の発生、庶民の困窮という混沌とした混乱極まる時代である。この4年後に阿蘇山が噴火している。


三十三間堂本堂隅鬼
 この1266年再建の2年前、比叡山延暦寺と園城寺(現在の三井寺)との間で、天台宗の経論と腐敗による争いから、宗門をめぐって僧徒が蜂起し、大きな争いとなっている。
 この後、1274年には蒙古軍が対馬、壱岐、筑前、肥前(いずれも九州)に来襲、時の執権者、北条時頼を困らせた。幸いにも大風雨が発生、蒙古軍船は沈没(文永の役)大難を逃れた。
 本堂の棟、隅の鬼瓦は江戸初期の作(慶長10年)と思われるが、徳川幕府を開いて数年後の製作で、大阪夏の陣、冬の陣等まだ戦の余韻は消えていない頃で表情は厳しく硬い。


三十三間堂鐘楼隅鬼
 この鬼瓦は奈良市にある新薬師寺本堂の棟鬼(天平の甍と呼ばれる747年作)の複製であろう。製作年代も江戸後期、もしくは明治初期の作ではないだろうか。さすがに、目に力がある。


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